「良かったよ」と言われたとき、心に起きること
「良かったよ」——たったそれだけの言葉が、どうして魔法のように感じられるのだろう。
今回、ライフコーチの仲間であるりっ子さんと話をしながら、そんなことを考えました。
何か特別なことを成し遂げたわけではなくても、誰かから「ここが良かったね」「よく調べたね」と言ってもらえる。すると、自分がやってきたことを初めて自分でも確かめられるような瞬間があるのかもしれません。
頑張っている最中は、自分がどれくらい頑張ったのか、何が良かったのか、自分ではなかなかわからないものです。だからこそ、外側からかけられるひと言が、その人の中にあるものを照らしてくれるのだと思います。
認められる機会は、思っているより少ない
りっ子さんは、専門学校や大学で、保育者や教員を目指す学生たちに関わっています。
学生の発表が終わったあとに、良かったところや、よく調べていたことを伝える。すると学生たちは、とても喜ぶそうです。自分の発表が良かったのかどうかもよくわからないまま、それでも自分なりに頑張った。その頑張りを言葉にして認めてもらえることが、嬉しいのだといいます。
日本の若者は自己肯定感が低いと言われることがあります。でも、数字や言葉だけで考えるのではなく、日々の場面に目を向けてみると、親や先生から「認められる言葉」をかけてもらう機会そのものが、少ないのかもしれません。
私たちは、相手の良いところに気づいていても、わざわざ口に出さずに過ごしてしまうことがあります。
「頑張っているな」「よくやっているな」「それは良かったな」
心の中ではそう思っていても、言葉にしなければ、相手には届きません。認めるということは、思うだけではなく、伝えるところまで含まれているのだと思います。
短所と長所は、離れたものではない
授業の中で、学生が自分の長所と短所を書き、それを混ぜて配り、特に短所について温かいメッセージを書くワークショップも行われているそうです。
自分では「短所」だと思っていた部分に対して、「それはこういう良さでもある」と誰かから伝えてもらう。すると、自分がダメだと思っていたところを、別の角度から見られるようになることがあります。
長所と短所は、完全に別のものではありません。同じ性質が、状況や見方によって、長所にも短所にもなり得る。けれど、自分ひとりでは、その性質の別の面に気づきにくいことがあります。
だから、誰かに言葉にしてもらうことには意味がある。
「慎重すぎる」と思っていたことが、「よく考えている」と見えるかもしれない。「話しすぎる」と思っていたことが、「人との距離を縮める力」と見えるかもしれない。
ここで大切なのは、無理に短所を長所へ変えようとすることではありません。自分の中にあるものを、一つの見方だけで決めつけないことです。
話を聞くとき、すぐに答えを出さない
この対話の中で、私自身が立ち止まったのは、「話を聞くこと」と「アドバイスをすること」は違う、という点でした。
誰かが話しているとき、つい「こうしたほうがいい」「こうすればうまくいく」と言いたくなることがあります。相手のためを思っているからこそ、解決策を渡したくなる。
けれど、相手はただ話したかっただけかもしれません。
りっ子さん自身も、子育て中のお母さんたちとの会話で、アドバイスをしてしまった経験を話していました。あとから振り返ると、相手は答えを求めていたのではなく、話を聞いてほしかったのだと気づいたそうです。
この違いは、相手の話を聞くときに忘れたくないことです。
話を聞きながら、自分の中にある「何か言ってあげたい」という気持ちに気づく。そのうえで、すぐに答えを渡すのではなく、「それはどんな気持ちだったのか」と尋ねてみる。相手の中にある思いや考えを、相手自身が見つけられるように待つ。
「良かったよ」という言葉も、相手を自分の望む方向へ動かすための言葉ではありません。まず、その人がそこにいること、その人なりに取り組んだことを認める言葉です。
家の中にある「良かった」を、口に出してみる
りっ子さんは、子どもが小さい頃のお母さんたちとのお茶会についても話していました。
家のことをし、仕事をしている人もいて、その中で育児をしている。疲れやストレスがたまっているからこそ、集まるとみんな話したくなる。けれど、人数がいる場では、話したいと思っていても自分の番がなかなか回ってこないこともあります。
そんな中で、誰かの話に「本当に良かったね」と返す。たったそれだけで、相手が喜ぶことがある。
このことは、家族の中でも同じなのだと思います。
毎日続く家事や育児、仕事。続いているからこそ、いつの間にか当たり前になってしまう。最初は感謝していたことも、日々の繰り返しの中で言葉にされなくなる。
「作ってくれてありがとう」「洗濯してくれてありがとう」「今日も頑張ったね」
そうした言葉を、心の中だけで終わらせない。相手に届く声にする。そのひと言が、相手の中にある力を思い出させることがあります。そして、伝えた側も、相手の表情や変化を通して、自分が誰かの力になれたことに気づくことがある。
認めることは、相手だけに力を与えるものではないのだと思います。
謙遜の先にある、自分らしさ
褒められたときに、「そんなことないです」「大したことありません」と返してしまう。日本では、謙遜することに価値が置かれる場面もあります。
私たちは、褒められることに慣れていないのかもしれません。認められたときに、素直に「ありがとう」と受け取ることにも、少し練習が必要なのだと思います。
けれど、誰かの言葉を受け取ることは、自分を大きく見せることではありません。自分の中にあるものを、なかったことにしないことです。
「良かったよ」と言われたとき、すぐに否定しなくてもいい。「ありがとう」と受け取ってもいい。
そうやって認められる経験が重なることで、「このままでもいい」と感じられる安心につながることがあります。その安心があるからこそ、自分らしさを発揮できる場面もあるのだと思います。
たった一言を、言葉にする
「良かったよ」は、何でも無条件に褒めるための言葉ではありません。
相手の何を見て、どこを良いと思ったのか。その人が何を感じ、何を考え、どんなふうに取り組んだのか。そこに目を向けたうえで伝える言葉です。
だから、短くても届く。
自分では見つけられなかった良さを、誰かが見つけてくれる。自分では当たり前だと思っていたことを、誰かが言葉にしてくれる。
そんな瞬間が、次の一歩につながることがあります。
今日、誰かに対して「良かったな」と思うことがあったなら、そのまま心の中だけに置かず、言葉にしてみる。そして自分が認められたときには、否定せずに受け取ってみる。
たったこれだけのことが、相手の心にも、自分の心にも、静かな明るさを灯すのかもしれません。












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